失敗作ほど必要とされているからどんどん出していこう
自分は完璧主義なところがあって失敗にとても敏感な人生を歩んできました。
失敗しないように細心の注意を払って常に平均点以上を取れるよう努力してきたわけです。
ところが最近、
失敗作への需要に気づいてしまいました。
それに気づいてからというもの、失敗への恐怖、失敗作への落胆が幾分軽くなったように思います。
そこで今回伝えたいのは
「失敗作ほど必要とされているからどんどん出していこう」
ということです。
失敗を極端に恐れてしまう慎重派な方にぜひ読んでいただきたいです。
それではどうぞ!
失敗作への需要に気づいたきっかけ
私がこの需要に気づいたきっかけというのが、Photoshopという画像加工ソフトの練習用に、写真素材を探している時でした。
Photoshopでは、さまざまな機能でイマイチな見栄えの写真を美しく変身させることができます。
そこでイマイチな見栄えの写真を探していたのですが、普通に素材サイトを探しても出てくるのは美しい写真ばかり!!
手ブレしていたり、ピンぼけしていたり、変に青みがかっていたり、斜めってしまっていたり、、
そういった一般的に失敗作と言われるような写真は検索しても意外と出てこないのです。
これは困った、となりました。
成功例より失敗例の方がわかりやすい
そしてもうひとつ。
成功例というのはパッと見、どこがどうなっているから成功なのか、観察してもその要素や要因がわかりづらいという点があります。
でも失敗例は、なぜそれが失敗なのか原因がわかりやすい場合が多いです。
たとえばイラストを見た時に、これはイマイチだなと感じたとします。
どこがイマイチなのかは割と観察しやすいのではないでしょうか。
・頭に対して体のサイズがおかしい
・線がガタガタ
・ありえない関節の曲がり方をしている
こういった具合に観察できます。
一方で美しく完成されたイラストというのは、観察しても整いすぎていて何がどうして美しく見えるのか検討がつかないのではないでしょうか。
人間はどうやらマイナスな部分ほど発見するのに長けているようです。
失敗作はとても有用
つまり失敗作は、これから何かを習得したい、練習したいと思っている人には貴重で価値のあるサンプルだと言えます。
失敗なんてそんなものは捨ててしまえと思っていたら、それはとてももったいないことかもしれません。
その失敗というサンプルを喉から手が出るほど欲しがっている人がいるかもしれないからです。
仮に周りの誰かがその失敗作を欲しがらなくても、自分自身にとってかけがえのないものであることは確かです。
失敗というサンプルは、行動した暁に得られるもの。
そこに成功へのヒントがつまっているはずです。
失敗だと思っても出す
だから私は画像でも文章でもイラストでも、正直イケてないなと思う出来でも発信してしまっています。
それは自分の成長過程で通るべき道だろうし、同じ道を目指すどこかの誰かのためにもなるかもしれません。
それを積み重ねて後から振り返った時に、あの頃の出来は本当に悲惨だな、と思えたらその分成長を感じられてうれしくもあります。
誰かの失敗に敬意を払う
また大事なこととして、誰かの失敗には敬意を払うように意識したいと思っています。
誰かが行動した結果得られた貴重な失敗サンプルを目の当たりにしたら、バカにするのではなく行動したことに敬意を払ってありがたく自分の糧とさせてもらうのがいいのではないでしょうか。
最後に
たくさん失敗している人というのはつまりたくさん行動している人であって、失敗をたくさん経験している人は他人の失敗を笑うことはありません。
失敗のつらさも、その分得られる価値も知っているからです。
日本社会がもっと失敗の有用性を知って、失敗に前向きな社会になるといいなと思います。